ジャスト・プレイ・フォー・ミー (祈っとくれよ)

祈っとくれよ,お嬢さん

祈っとくれよ,あたしの為に

あんたいい人みたいだからさ

あたしの話を聴いておくれよ

でもすぐに忘れてくれていいんだよ

そういって彼女は悲しい身の上話を始めた

 

長い道のりを歩いて来たんだよ

悔いばかりが残ってる

為にならない事ばかりしてきた

誰もいやしない

こんな惨めな人間なんか

ずっと監獄に入れられてるみたいなひどい気分なのさ

 

ある日やっぱり飲みたくなってバーに行った

でもいたたまれなくなったんだ

バーテンに声をかけたら 急に

その顔がイエス様に見えたんだ

ぎょっとして床に膝をついちまった

やっと外まで這っていったんだ

振り向いたとき思わず叫んだ

だってあの緋色の女がニタニタ笑って

ウィスキーの瓶を振りかざしてたんだ

そう、腐れ縁の古い知り合いさ

 

だから、祈っとくれよ,お嬢さん

祈っとくれよ、あたしのために

あてなんてないよ

今夜過ごす場所すらも

誰もいやしない

こんな淋しい人間なんか

祈っとくれよ、せめて

祈っとくれよ、あたしのために

夜も遅い十時頃、サンフランシスコは下町のラーキン通りを歩いていました。どの角にも、ホームレスがいて、近づいてくるのです。昨今の家不足と悪くなる一方の生活環境の中、地べたに寝るスペースを確保するだけでも、彼らにとっては大変な競争なのでしょう。 歩行者に一ドルでも多く出させる為には、ただ哀れっぽく乞うだけではなく、もっと面白いやり方をしないと駄目なようです。

一人の男はサミー・ヘイガーよろしく、頭のてっぺんから叫んでいました。本当に苦しんでいたのか、それとも余興なのか?もう一人は背の高い、筋肉隆々の男性。彼は通りを横切って私の方に来ました。親しげな笑顔で笑いかけると、彼はTシャツの袖をまくり上げて,逞しい腕を見せてくれました。喜んでボディーガードになるというのです。 一晩中ボディーガードを雇う程には財布の余裕がある由も無く、二ドルを渡すと、それでも彼は笑顔を絶やさず、去っていきました。

読者の中には、私と同じように、一体どんな辛い偶然が重なって,ホームレスの多くは、路上に寝起きするようになったのだろうと、想像を巡らせる方もいらっしゃると思います。彼らの多くは、普通の人達で、真面目に毎日働いていたのかもしれない。急に重い病気にかかったのかもしれない。働けないという事は、給料がストップするという事で、給料がもらえないという事は、家賃、家のローンが払えないということで、頼る近親者もなく、友人も無く、あれよあれよという間に、路上生活が始まったのかもしれない。こういったタイプのホームレスが現れ始めたのは比較的最近で、2008年の経済危機の後は、ひどくなる一方のようです。

他にも、荒んだ家庭に育った人々もいます。あまり賢いとは言えない大人達に生活を支配された幼少時代。身体的、精神的、社会的にも虐待された過去。飲酒、ドラッグ、売春などは、それらの過去に受けた傷が、ただ単に表に現れた結果なのかもしれません。

そんなことを考えてみると、ある境遇を生きた人にとって、生き方を変えるためには自己の強い意志以上のものが必要なのではないでしょうか。「私には、生きる価値がある」ということを強く,深く信じられる何かが必要なのではないのでしょうか。『祈っとくれよ』の主人公にはそうした希望がありません。それがただただ悲しい。

信仰をとっくに無くした彼女にとって、「神」は過去の悪い所行の報いを求めに訪れる恐ろしい存在でしかない。彼女の人生には何の意味も無い。そうおののきながらも、見知らぬ通行人に取りすがり、「そうではない」と言ってもらいたい。

ふと私は思いました。「慈悲心」というのは、「想像心」ということなのではないだろうかと。ある人の立場になろう,その人が経験した事をもっと肌で感じようと想像力を働かせば働かせる程、慈悲の心も増すのではないでしょうか。この曲を書いたのも、そうした想いを伝えたかったからかもしれません。

私はこの曲のモデルに会った事はありません。でも、ある意味ではもう、どこかで出会っているのかも知れませんね。この曲を聴いて、気に入っていただけたら、読者の方々も、ぜひ想像力を膨らませて下さい。そしてもし、この話の続きを作って下されば、うれしいな。そして、あなたのお話の中では、彼女がもう少し幸せになってくれることを願います。

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